昭和53年01月28日 朝の御理解



 御理解 第61節
 「神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら、神心となりて人に丁寧に話をしてゆくのが、真の道をふんでゆくのぞ。金光大神が教えたことを違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても、神より上になるとは思うな。」

 昨日此処で研修させて頂く時、栄四郎が発表しとりました。纏めておると言う事ではないけど、昨日のことばにですね、今日の御理解を頂いて思わせられること、考えさせられることと前置きしていっております。例えばすべてのことにですね、陰陽がある様に、僕の場合には片一方のことを頂いとるけど、片一方のものがない、陽があるなら陰がない、陰があるなら陽がかけておる。この両面を頂かないとおかげは頂けないな、お徳は頂けないなと言う事を昨日、今日しきりと考えておるというのです。
 例えば先日のお話しに、阿倍野の先生のお話しと、上滝さんのお話が出たが、例えば阿倍野の先生が五十年間、自分の信心をふり返られて、もう一日たりとも有り難くないという日はなかった。もう五十年がそのまま有り難いと言う、五十年であったとこういうとられる。そしてああいうお徳を受けとられる。上滝さんの場合も三十年間でしようかね。主人をなくされたのも、あんまり阿倍野の先生も、ご主人が三十七か八か亡くなられとるから、上滝さんところもそうです。
 ご主人を上滝勇さんが亡くなられまして、それから残されました四人の子供とそれに年寄りを抱えながら、百姓半分、お商売半分とあらゆる商売もまあされて、最後には化粧品を販売すると言った様な、そこから子供達の手足も伸びて、大学に行くという子には大学にやらせて、専門学校に行きたいという子には専門学校にやらせて頂いて。それぞれ教育をつけて、しかも嫁も取った養子にもやった。というそして家も建て直した。おかげで最近では庭もこんなに立派に出来た。
 もう嫁御もそれぞれおかげを頂いてと、いう本当に年勝りのおかげを頂いて、あの時分の事を思うたらそれこそ、血の涙の出る様なこともあったけれども。それを親先生にお縋りをしておかげを頂いて来たと、そう血の涙の出る様な過去なんです。そして後から考えてみてです、やっぱりあれもおかげであった、これもおかげであったというのですから。もういうなら本当の信者ぢゃと言う事になりますけれども。阿倍野の先生の場合は、五十年がまるごとそのまま、有り難かったと言う事になるのですね。
 魚の頭を出されれば頭になれと頂かれた。尾っぽを出されれば、しりっぽを親様が王になれよというて下さるのだ。真ん中を頂けば尚更有り難い。もうこの行き方で自分の生涯はこの行き方で行くんだと、いうなら笑い話の様な話を聞いて、腹を決められたんです。そしたらそれをですね。本当に行じ抜いておられる、と言う事が五十年を回顧して、お話の中にその都度、都度をもう有り難しで受けとられるころにです違いがある。
 例えば昨日親先生が話されたお神酒を一杯頂いて、もう夕方ですから私が寝ませて頂いて、暑くも無かなければ寒くもない、痛い痒いもなからなければ、もう本当に何ともいえん気持ちで寝ませて頂いて。ああこれが極楽であらうかと思わせて頂いてうとうとしていたら、久富先生が洋服を取って、布団の中に足を入れて揉んで下さって。フト気が付いたら足を揉んで貰っていた。そういう中にです極楽以上の極楽、合楽することはこう言う事だろうかと、私が思ったと言う事を、昨日栄四郎がいうのです。
 だからもしそう言う事だけが合楽であるならばです。これは必ず凡人は怪我をする、おかげを落とす、だからこれにです。いうならば阿倍野の先生の信心ではないですけど、決してなら五十年が生易しい年ではなかったろう、もう普通からいうなら上滝さんじぢゃないけど、血の涙の出る様なこともあっただろう。後から考えてみりゃあれもおかげであった、これもおかげであったと言う事は、過去一切を生かすことだけど。阿倍野の先生の場合は即その場で生かしておられたと言う事なんだ。
 これは皆さんもようとそのことを後でおかげと分かるよりも、今おかげと分からなければ、その間は不安であったり心配であったり、腹が立ったり血の涙が出のです。もうこの中には神愛より外にはないのです。僕の場合は極楽の上にまた極楽さして貰う、超極楽と言うか合楽の世界と言う事のおかげを頂く事のものは、持つとる様な感じだけれども、そんならそれを例えば暑かっても寒かっても、暑くも無ければ寒くも無い、ひもじくもなければ、くちいと言う事もない。
 痛いもなからなければ痒いもない、そう言う時にああこれが極楽だろうかと言う心はあってもそれとは反対に、暑いかっても寒いかっても、お腹が空いてどうしょうもない事があっても。痛い痒いがあっても、そこを有り難く頂く辛抱が出来ていない事を、栄四郎君、昨日今日しきりと考えているという発表をしました。それで私が申しました。昨日今日の御理解を分かったでなくて、あんたは頂いたよというて話した事でした。
 信心にはね、分かると言う事と、いうならば頂くと言う事と相俟って行かなければいけないと言う事です。分かってはいないけど頂いた、御理解をいうなら丹念に繰り返し頂いて、まあ頂きどころをずうっと抜粋するとか、また自分の信心をそれに添えて皆がそれを発表いたします。これはいわゆる分かったという信心。分かっただけじゃいかんそれに頂くという信心が相俟って。栄四郎の言葉を借りるならば陰陽の信心が、出来てゆくと言う事になるとじゃないでしょうか。
 そこから生みなされるおかげを、私は本当のおかげだとこう思う。それを人にいわば伝える神心となって伝える。実意丁寧に伝えるいうならば真の信心が伝わらない筈はない。だからそれが神になるのじゃと仰る。唯おかげおかげと言う事になって来るとですたい、もう自分より上はないと思って、それこそ神より上になった様な心が起こってまいりましょうけれども。その陰陽相俟っての信心が、身について行き陰陽合体して生まれて来るところの、おかげというか話というものは、人に伝わらない筈はない。
 心打つお話も出来るでしよう。また真の信心をさせる手立てと言う事にもなるでしよう。それが神になるのぞとこういう御理解を頂いて、分かったそしてそれを行じた。そこからいうなら生みなされるもの。昨日一昨日でしたかね、直方の安藤さんが、二十日の熊谷さんところの共励会に出席させて頂いて。もう本当に拾い物をしたよう、特別のおかげを頂いたような思いだと言う事をお届けされました。あちらえ参りましたら、熊谷さんが白扇を出して見えられた。
そして自分も知らなかったて、これは確かに親先生に書いて頂いとると思うのだけれども。私も知らなかったので余っ程昔だったらうと思う。『天地の心とは黙って与えて、黙って受けることだ』とそうでしたかね。『だまって受けて、だまって与える』ですかね。そう言う事が書いてあった。私はそれを聞かせて頂いてドキッとしました。もう何十年間このことを、何十年前に私はそのことを言い続けとったと言う事です。いうならば合楽理念の根本は、もうその頃から出来ておったんだ。
 自分のものになっていないけど、勿論神様から頂いておることですけれども。天地の心天地の親神様の心というものは、黙って与えてだまって居けて行くと言う事ね。もう天の心は限りなくいわば美はしい、美はしい心だと与えて、与えて止まない心だと。その後において御理解を頂いておるわけですね。地の心というのは、それこそ黙って治める、黙って受けて受けて受け抜く心。そこに人に分からなかっても神様に通じる。神様に通じるから、私が神様の御信用を受ける。
 御神徳を受けることが出来ると言う事なんですね。どんなに昨日の御理解、悪口雑言でもね、それが言うならば、黙って受けてゆくことの信心が、出来ておって初めて、あれが御神願であったな。御神愛であったなと言う事が分かる。赤面弁慶になって言い訳をすることも何もいらない、そう云う生き方をです。いわば身につけて行くと言う事です。それこそ陰陽足らうた信心からでなからねば、そういう信心は生みなされんし、行ずることも出来ないでしよう。
 神より金光大神にいつまでも尽きぬおかげ。いつまでも限りなくいうならば無尽蔵、いうならば無限大。例えば横八、八を横に数字の八を書くと丁度丸いものを、こう捩った様な形である。それこそ腹がよじれる様なことがあろうけれども、これを丸くして一寸こう捩ってゆくと丸くなる。そういうおかげね。横八というのは数学の記号で、無限大ということだそうですね無限大。教祖様はここんところを無限、限りなくおかげの頂いて行ける話を残しておくと仰る。
 その時その時でない限りないおかげ、いうならば御神徳を受けられる話を残しておくとおっしやるのです。だから神様の教えて下さる事は、御神徳を受ける事の為の、限りないおかげの頂けるための教えなんです。それには必ずいつの場合でも陰陽があると言う事です。分かった頂いたという在り方、自分の心の中にいうならば、厳しい心があるかと思うと半分には優しい心。そういうものが相俟って育って行くという信心。
 そこから生みなされるところの体験、おかげ、それを人に丁寧にそこまでの信心が出来なければ人に話せないか言う事ではないですけど。そういう信心を目指させて貰うて、お道の信心、金光教ではこう言う事を教えられるです。私のはまあだ中途半端ですけど、ここを目指して信心しております。いよいよ丸い心をいわゆる、無限大におかげの頂けれる信心を、身につけさせて頂くと言う事は実に有り難いんです。リズムが出て来るんです。リズムに乗って信心が出来るんです。ですから楽しいんです愉快です。と言う様なお話ならば出来るわけです。
 そりや合楽に参ってんなさい、そげな病気なら一遍に治ります。もうそげなことなら親先生にお願いして、右か左かピシャと決めて下さると言った様な事が、合楽の信心である様にあったら、私は結局そういう生き方では、私は神になる様な信心にはなれないと思う。如何にそれで導かれたからというて、本当なものが伝わって行きせんもん。神様が一番喜んで下さるのは真の信心をして、氏子が助かって行くことが最大の神様の願いです。そのためにどうでも、信心を私に分からせて貰わなければならない。
 頂かせて貰わなければならない。そしてその頂いて行くところの信心を、人に実意丁寧愛の心をもって伝えて行く、そこからまたそういう信心を、願って信心を進めて行かれる方達が出来る。成る程一人助かれば一人の神、一人助ければ一人の神だと仰る。そういういうならば高尚というかね。金光様の御信心はどこまでも、その生き神を目指しての信心なんです。そのお互いそれそれ過程のところにあるわけですけど。昨日一昨日のはな、はと、まめ、ます、ではないですけれども。
 もうはなから信心を求めて、信心とはと言う事をね。昨日一昨日でしたか日田の奥の方から参って見える、佐田さんのお導きだったと思う、夫婦でもと学校の先生か何かしておられるという、参って見えられた。そしてしきりに金光教でいう神様とはと言う事を尋ねられるから。私があんたに金光教でいう、天地金の神様を教えたからというてね、結局金光教でいう天地金の神様が、一番最高で最大だといわねばならん。なら00教にOO宗に行ってご覧なさい。
 自分達の頂いとる神様が、自分たちが頂いとる仏様が一番素晴らしいのだというに違いありません。そういう神様を分かったって駄目だと私が、そう言う事よりか、あなたが理屈が知りたいなら。合楽理念を語るを読んで下さいというて、私の方のそれを上げて、そしてまずあなたが持っている難儀をおかげ頂いて行きなさい。そのおかげから成る程親様だな、親神様だなと言う事が分かってゆく。
 理屈で分かったのでは、私あなたの様に学問してある人に分からせることは出来ないから、おかげでもって分からせることなら出来るとおもう。まあとにかくこの合楽理念を読んで下さいというてね。そしてその裏に私が晃という字を書いてやった。金光様の御信心はね、如何に天地金の神様が素晴らしいかと言う事をね。実証して行くことが出来る。これは辞引きを引くと、日と光の旋律と書いてあるそうです。日と光、日は天地の親神様、光りは私共が信心しておかげを受けて心に光りを頂く。
 そこから日と光の調和というかいいうならリズムが生まれて来るのです。ですから日々が有り難うして、楽しうしてということになって来るのです。というて書いて説明しましたら、夫婦で顔見合わせてたまがった様な顔をして。実はここにおかげ頂いとります長男が生まれた時に、この晃という字をに決まっとった名前が、ところが横から中傷が入って、他の名前を付けたのですけど、惜しかったですなと、息子さんはもう三十位になるでしょうか。二人でしきりにいわれる。
 もうあの時に晃という字をつけとけば、こんなに素晴らしい意味のことじゃったのにというて。そんなことはどうでもよいけどね。けども不思議なことですね。その晃という字にもう何十年も前に、あなた方が或る意味合いで感じておられた。金光様の信心はね。これが実際に日常生活の中に表して行ける信心ですよと、私が申しましたから二人が感心しましてね、まあ帰られましたね。金光様の信心はどこまでもそういう日常の生活が、どこまでも天地の道理に合うた行き方になって参りますと。
 リズムを感じることになります。神の中を分けて通りおる様なもんだという、実感の中に信心を進めて行く、どういう信心かというと陰陽たろうた。その栄四郎の発表ぢやないけど、そういうものを自分のどちらか欠けておるというものをね。私共は自分の身につけながらおかげを頂いて行くのですから、その陰陽の中から生まれてこない筈がない。その生まれてくる信心、その生まれて来るおかげを人に丁寧に伝えて行くというのですから。またその真の信心が伝わって行く様なことになるのですよね。
   どうぞ。